日の神

言葉で嘘をつけても、目は嘘をつけぬなり

夢幻か、夢を見ている時というのは、それが現実という風な感覚、これ夢もメッセージなり。
何気ない摩訶不思議なる世界の夢、又は、リアリティの様な夢を含めて、意味がない様でいて、意味がある。
この世は、まあ、何故ゆえに、人は生きる上で、起きている時間と、寝ている時間というのを与えられているかだ。
所謂、朝と夜、まあ照らすは太陽と月、この様に一日も、陽と陰という御仕組みで出来ておる訳だ。
人間、起きている時は、ま、大概は昼寝でもしなければ、縦の姿勢である。
座っている時も、縦の姿勢なり。
そうする事によって、縦のエネルギー、所謂、これ、まあ漢字で申すと、この様に縦(立て)と横なる訳であるが、これ、やはり人というのは、この縦の御意図(みいず)、所謂、陽のエネルギーというもの、充電が必要である、うーん。
どうしても、まあ病に伏せていたりという風な折には、なかなかこれ、この縦のエネルギーというのが、賜わる時間が少ない訳であるから、これ、その様な工夫というものが必要になって来る訳だ。
これは目が覚めているから、横になってても同じでは決してない。
縦は縦、横は横のエネルギーとなっているという事が、まさしく陽と陰のエネルギーな訳だ。
これ、どちらも必要なるエネルギーなり。
ま、大概は起きている時は縦で、寝ている時が横になる訳であるが、所謂、こちら(縦)が動、こちらが(横)静、いずれにしろ、これは「相反するエネルギー」、十字に給びたまいての「生命エネルギー」となる訳だ。
この生命エネルギー、必ず必要なのが、この二種類である。
であるから、やはり寝不足になると、この生命エネルギーというもの、充電が足らないから、後で響いて来る訳だ。
若いうちは、徹夜、平気な時期も勿論あるが、これ、段々とこの睡眠不足というのが影響多しとなって来る訳だ。
で、寝ている時も、常に脳が働いている訳だ。
そうして見る夢というもの、まるでその夢を見ている時は、現実の様に感ずる訳だ、うーん。
否、現実に起きている時も、夢の様に感ずる事もある訳だ、うーん。
まるで摩訶不思議なる世界の体験をすると、現実的に思えない事が起こる訳だ。
そういった体験というのは、実は貴重で訳であり、誰もが与えられる体験ではないという事。
人は、一つや二つは、そういった摩訶不思議なる体験により、例えば、
「ああ神様は存在するのだな」
「霊は実在するのだな」
という風に受け入れる。
まあその為に、そういう体験させているのは、こちら側ではあるがな、ハハハ。
タケル「(笑う)」
ハハハハハ、うーん。
よく幼少の頃というのは、割とこう、そういった能力、残されている場合がある。
段々大人になるにつれて、現実主義という風に、やはり社会に揉まれて来るから、うーん。
まあ、大人になってからも、勿論、摩訶不思議なる現象、体感する者も多し。
まあ、それぞれ与えられる、これ「奇跡」と申す。
所謂、現界は三次元で、四次元界は、これ、異次元という風に、この現界とは違う世界が存在している訳であるから、まあ垣間、少し見せているだけであり、こちら側からすれば、それは摩訶不思議でも、何でもないという事になる訳だ、うーん。
でも、その中に、「まやかし」という風な「幻覚」も中には多くあるから、そこを気をつけねばならぬとなる。
幾ら奇跡を目の前に見せても、これ、果たして、それが正神の神からの御意図(みいず)で来ているかどうかだ。
何を話しているかというのは、色々そういった不思議体験を通して、「信じ込ませる」という風な方法もある訳だ、うーん。
それは、動物霊が神と称えられている場合の時に多し。
動物というのは、特にキツネやタヌキというのは、化ける事が上手し。
そうなると、まあキツネの場合だが なかなか尻尾を出さずに上手いこと騙す事だうん。
これ「まやかし」を見せては本物だと信じ込ませ、もって、そういった所にお参りしたり、信じたり、又は、加入したりという風な事になって来ると、とんでもない事になる訳だ、うん。
そういった集団の所や、そういった神社の所などは、まさしくキツネの霊などがた称えられている訳だ。
又、関わっている場合が多い訳だ、うん。
まあ、そういった集団の様な所でなくとも、一人一人にキツネの御霊が憑いていると、真これ、嘘が巧みであり、なかなかバレないという風な、上手い話がドンドン相手に信じ込ませ、もって、騙そうという企み、魂胆がある訳である、うーん。
「ズル賢い」というのは、まさしくその通り。
タヌキは、嘘はすぐバレる、バレやすいが、キツネはなかなかこれ、ズル賢い訳であるから、然れども、これからは、そういった企みもドンドンと暴かれて来る時代が到来した訳だ、うーん。
必ず尻尾を出す、必ずな、となる。
今までは上手くいってた月の時代、これ、太陽の時代はそうはいかぬ。
特にこれからは、バレて来る訳だ。
バレバレ、悪いことをしている者は、そういう風な現象が起きて来る。
こちら善の者は晴れ晴れ。
「あーやっと良い時代になって来た」
「分かりやすい時代だ」
「そうだったのか、うーん」
という風に、善悪、白黒ハッキリと分かりやすくなって来る時代が、これからドンドン起こって来るし、今の現状もその様になって来ている訳だ、うん。
だから、よーく、これ、何が正しいか否か、正か邪か、善か悪か、白か黒か、という風に、「見極める目」を養うことだ、これ大事である。
黒なのに白だ白だ、と騙されている場合ではないという事、うーん。
動物霊を神と崇めている所というのは、まあ、その動物はキツネだけではない、うーん。
まあ他にもある訳であるが、これ、いずれにせよ、低級霊であるから、まあ騙すのは上手し。
「あそこ奇跡起きるのよ、誰々さんが救われたんだって」
「業病なのに、すごいわね。じゃ私も行ってみよう」
うーん。
低級霊が神と崇めている、その存在は、必ずどこの神社にも、祀られているものであるから、ハハハ、これ、そういった所に祈願すると、うーん。
「よしよし、言うこと聞いてやるよ」
「何を合格?祈願よーしよし」
で、後でしっぺ返しが必ず来る。
どの神に祈るかだ。
正神の神に祈るのか、邪神の神に願うかだ、ハハハ。
所謂、低級霊は、邪神と呼ばれ、これ、それも、かなりの悪さを必ずする訳である。
下手したら、祈願成就の折には、命まで取ろうとするものもおるから、これ、気をつけねばならぬという訳だ。
「見返り」を必ず求める。
よく人もそうであるが、
「私はあれだけの贈り物したのに、お返し全くないわ」
という風な心の者。
これ、贈り物とは、そもそも相手様に対しての「感謝の気持ちの表れ」であるから、そこの見返りを求めるというのは、どういうものかな?という風になる訳である、うーん。
まあ、自由ではあるがな、うん。
必ずこの見返りというもの求めるのは、邪神系統、低級霊たちだ。
正神の神というのは、これ、まったく違う訳で、うーん。
与えっぱなしな訳である、ハハハ。
それを、ひとえに「恵み」と申す。
人は、恵まれている訳だ。
まあ、それぞれ悩み、苦しみ、悲しみも起こるであろうが、どれもが愛から来ている訳である、うん。
「可愛いね」と、頭ナデナデされるだけが、愛ではない。
たまにはコツンと、「そこを直しなさい」という風な事も、起きて来る訳だ、うーん。
それは正しき、まあ所謂、こちらで言えば「子育て」である。
悪い事をしようとしているのに、頭ナデナデでは、どの様な子どもになってしまうかだ、うーん。
神の子、人はその様に、神からたまにコツンという風な現象、これ、「そこで気付けよ」という訳だ。
決して優しいだけして甘いだけが、優しさではないという事。
真の優しさとは、奥深きものでありて、これ、どの様なる、この子が大人になって成長していく上で、正しい道を歩むか否かという風に、これ、見守っているものが、親であるという事だ、うーん。
人類界の御親であられる、天地創造の神様は、ハラハラドキドキ、うーん、さぞかしされていらっしゃるという事である、うん。
何をしでかすか、分からぬ者があるからだ、ハハハハハ。
そういう者が指導者になっていると、とんでもない事が起きて来る訳だ、うーん。
陰なる指導者も含めてであるが、これ、大概は邪神系統に関わっている訳だ。
どちらの神に就くかというのは、自分の心の波長で決まる。
これ当たり前の事。
正神の神は、「善なる想念」、邪神の神は言うまでもなく、「悪なる想念」だ。
これ、善なる想念の指導者であるなら、どれだけ良き社会づくりになって、平和になるかである。
ところが、この邪神系統というものは、うーん、「悪の霊団」であるから、これ「正邪の戦い」というのは、いつの時代も行われており、所謂、こちら側は戦う気持ちはなくとも、ハハハ、その様に目には見えない所から来ている訳である、うーん。
が、然しこれ、今は正神の神、天の岩戸に押し込め祀った時に、この「悪の華」(あくのはな)咲く時代というもの与えたりよ。
それが、今でも悪の華咲く時代だと、これ、勘違いしている訳である。
「どうせ悪さをしても、又、輪廻転生出来るんだ」
冗談ではなーい。
神に「堪忍の緒」というものがあるのだぞ、という風な現象界が、これからドンドン起こされる訳だ。
であるから、飽く迄も、善なる想念の者たちは、そういった悪の華咲く世、段々これ、バレバレの現象が起こって来るから、分かりやすくなる訳であり、晴れ晴れしい人生となる様に、それが、これからの課題である。
心晴れ晴れというのは、これ、晴れは、お日様の晴れだ。
光り輝く我が人生を築き上げる為に、真ス直なる感謝の者で、自分というものを高めていく事、うん。
人様に贈り物を、というのは物だけではない。
心の贈り物も、常にこれ、メール、電話、又は、お会いして贈る事が出来るものだ。
言葉一つでも、まごころの贈り物になれる訳である。
たまに出会う者に、
「お元気ですか?」
その一言だけでも、また暫く会えなかった方にも、
「お元気ですか?」
この「元気」という言葉は、言うまでもなく「元(もと)の気」と書く。
人というのは、この「気」というもの、常に常に発信している訳だ。
何度も言う様に、光り輝く「氣」を発信しているか、シメシメの方の「気」を発信しているからだ。
そして、それは必ず、これ「オーラ」に現れ、もって、その者の表情、言葉などに現れる訳だ。
これからは、必ずこれ、どんなに隠そうとも、何度も申すが、目で分かるものだ、うん。
目は、嘘はつけぬ。
言葉は嘘はつけても、瞳は天地創造神、主の神様の目玉おやじと繋がっているからだ。
善か悪か、「瞳を見よ」という事だ、うーん。
優しい者は、優しい目をしている。
厳しい者は、厳しい目をしている訳だ。
分かりやすい、うーん。
これ段々段々と、日の出が時間が早くなる。
寝ている場合じゃないよっていう事で、想念界を振るい立たせることが大事だ、うーん。
私は、光の神。
以上。

2017年2月26日 朝6時15分~6時45分 日の神様