日の神・主晴

神の教え、受ける者と受けぬ者の二通りなり

委ねるという事は、身を任せるという事でありて、流れに身を任せる。
まあ、そういった人生というのは、常に流れの中にある訳だ。
この流れというものも、自ずから発する「気」によって、変わって来るものだ。
所謂、良き方向に流れるには、神の想いに、これ波長が合えば、ドンドンと「神の氣」に
波長が合うというもの。
世の中には、所謂、あらゆる国々の者たちが住んでおるが、その国々の特徴というもの、ひとえにこれ、その国、その国に与えられたる担当神という者がありて、西洋は西洋の、東洋は東洋の担当神というものが分かれておる訳だ。
所謂、これ、物主(ぶっしゅ)か、霊主(れいしゅ)かという風に、西洋、東洋というものに分かれている。
これ勿論、担当神の御意図(みいず)というものを賜わっている訳だ。
もって、根本的なる考え方というもの、その国、その国での崇めている神々、これ皆、呼び名は違えども、同じ神を祀りておるという事は、何度も示しておる。
然しながらも、未だこれ、違う神々と思い込んでいる訳であるから、宗教戦争というものが起こると、未だもって解決つきにくくなっている訳だ。
これは神の教えというもの、所謂、宗教という、この宗という字をよく見てみますれば、宇宙を示すのが宗教でありて、それを教えると書いての宗教、本来ならば宇宙の法則を示している教えが、神の教えでありて、然しながら、この法則の「法」という文字も、ここに正しく理解せねば、「去る」という意味合いも持っている。
さることながら、今まで論じ合っており、こちらの神が正しい、あちらの神が間違っておるという風になっている。
その考えを覆すのが、「神は一つなり」、光神はその時代、その国、呼び名は皆違えども、同じ光神という、正しき宇宙の法則を知らねば、未だもって紛争続けねばならないとなっている訳であるから、まさしくこの宇宙の法則は、これから世に伝えるべくして、伝えねばという、それが、まさしく、この光の元から来た「日神理神示」となる訳である。
万人に示すは、この教え。
然れども縁のある者、否、神が選びては示す訳だ。
それでいい、否、それがいい。
知る必要のないも者も多くありて、これ、知ったところで悟る訳でもなく、初めから受け皿がなってないという者、多くある訳だ。
光のサロンにありて、何度も神の教え聞いても、分からぬ者あれば、一度聞いただけで分かる者もおるという事。
それぞれ許されての悟りでありて、理屈理論ではなし。
御魂で分かるというものだ。
これは、同じ様に教えを与えられても、何でも受け取り方の想念は、二通りという訳である、うん。
「受け入れる者」というのは、常に常に正しきものを探究しては、向上していく者。
「受け入れぬ者」というのは、自分自分で目一杯なりては、向上が無い者。
この違いである、うーん、ハハハハハ。
これからは、「火と水の洗礼」。
理屈理論、いつまでも論じあっていても、解決など何一つ無し。
要は、地にしっかりと根付く、神の教えを賜わいて、実践する事、うーん。
もう遊んでいる暇などなし。
悠長なこと言っている場合ではなしだ、うーん。
タケル「はい」
一所懸命が、一生懸命になる。
一つ一つのものをこなさねば、実らないという事だ。
タケル「はい」
まずもって、実践実行のこの「実り」という字は、神、幽、現の三と書いての人と書く。
何事も、実践実行して、初めて「実る」という事だ、うーん。
心実りては、所謂、大らかなる、広い受け皿を持つ者という事でありて、これ、小さき事で、心荒立てては、そんな様な器ではいかんよという事だ。
タケル「はい」
何度も申す様に、大きな受け皿というのは、それはそれは色んな出来事が起こる訳であるし、色んな者との出会いがある訳であるから、相応にて心の器というものは持つものである。
まずもって、相手の話に、聞く耳を持つ事。
それから、自分の考えを持つという事。
人の話も聞かずして、幾ら教えを述べても、それは押しつけに過ぎぬという事だ。
まずもって何を考え、何を悩み、という風に相手の話を聞くというのは、大事ということだ、うーん。
人を見てみると、よーく分かる。
一方的に自分の話だけする者というのは、話し合いにはならんという事であるから、どこまでもこれは、人の悩みというもの、真剣にこれ、これからの時代、皆それぞれ少なからずともある訳であるから、それは、まず聞いて差し上げる事から救いというものが始まる訳だ。
受け入れの想念というのは、大事である。
タケル「はい」
よく教えを、押し付ける教えになっているのが多くありて、これ、教えというものは、本来、押しつけの教えではない。
その教えに聞く耳持つ者が、その教えを賜わるという事でありて、自由である。
違うと思えば、教えを聞かぬとも良いし、正しいと思えば、聞く耳持てばと良いし、という風に、これ、どこまでも教えというものは、多くあるから、まずもって何が正しいか、否かということの選択という事、これ大事なりよ。
神の教えというものは、本来一つなり。
タケル「はい」
人の教えというのは、色んな教えが、ハハハ、あるから、正しき神の教えが分かっておる者が、他の教えを聞く分には、何が正しいかという事、見分けやすいが、これは「洗脳」という事もあるから、気をつけねばという事である。
どうしても人というものは、御縁で繋がっておるから、そういう事も起こる場合もあるが、所謂、思い違いをもってしまうと逆方向である訳であるから、気が付いたら、とんでもない事になってしまう訳だ。
それが洗脳。
よく繰り返し繰り返し、マスコミが流す事よ。
お偉いさんたちが話す事など、これ正しいと思いて信ずると、まがい物が、真であるという風に受け入れれば、これ、とんでもない後悔となる訳だ。
タケル「はい」
であるから、どこまでも 真か否かという事だ。
真というのは、どこまでも、神(十・カミ)の目と書いての「真」でありて、また日(ヒ)の目と書いての「眞」でありて、神の目に繋がる人の目というもの、個々の目が曇れば曇るほど、これ、真か否かという事の見極めが分からなくなって来る訳だ。
それ、欲というもの、我欲というものありては、まがい物というものに繋がりて、後でとんでもない結果となって来る訳だ。
であるから、真で安泰か。
又は、この偽(ぎ)という、所謂、偽(にせ)というものは、本物に「似せ」ての「偽(にせ)物」である。
まるで真の様に思わせている訳であるから、そこで見極める目が大事となって来る訳だ、うーん。
神の様に見せかけて、実は動物霊を祀りたる神社に参拝する。
これ、尻尾の長ーいものが着いて来たり、邪魔をしたり、なりかねないという事だ、うーん。
どの神社にも、お邪魔しているだ。
であるから、欲心の強い者が、そちらの波長にドンドン合って来る。
もってこれ、化けるものであるから、上手い具合に本物の神という風に見せかけては、まあ望み通りにしてくれる事も多々あるが、後で必ず、これ、そういった動物霊は見返りを求めるものだ。
本物の神と、神に似せた偽なる動物霊は、全くもってそこが違う訳だ。
神は見返りなど、一切求めぬ。
只、成長を見守るだけである。
どれだけの者が、神に近付いて来るかという事の、年末にそばを食べさせては、これ、一人でも、神との「差取る」(さとる・悟る)という風に、それが「年越しそば」である。
想念界が神に近付くという、そのそば(傍)である。
言霊、この偽という字も同じ音霊を使いての、これが悟りやすい様に仕組まれる訳でありて、これ、日本語、本当に分かりやすい。
お正月の初詣、まあ、自分が選びての神社参拝であろうが、まずもって参拝するのはいいが、一番に祈り合わせするのは言うまでもなく、はい。
タケル「天地創造の神様」
そう、その通りだ。
タケル「はい」
それから、その下の神々という訳である、うん。
先程、申した訳であるが、神社も選ぶ事だ。
タケル「はい」
どこまでも神に参拝する折には、人の願い、神に申すのもいいが、神にも願いがあるということを悟る事だ。
タケル「はい」
一人でも多くの者たちが、少しでも傍に、想念界を高めるという事。
それが、神の願いである。
私がそう申しておる、ハハハ、うーん。
タケル「はい」
日の神。

2016年12月12日 夜11時55分~夜12月13日 12時24分 日の神様


≪引き続き、主晴様からのメッセージ≫
自ずとこれは、自分たちが選ぼうと思って、まあ、選んでいる様に見えて、実は神様が呼んで下さっているんだね、それぞれのところにね。
で、それが本当に波長が合うところに、やはり行かせて頂いている訳なんですよ、うーん。
まあ、神社に行かなくても、勿論、神様に繋がる事が幾らでも出来ますから、うん。
神社に行けば神様に出会えるという風な考え方というのはね、これは所謂、場所ではなくて、想いなんだねえ。
神様のお名前を発しただけで、勿論、繋がるし、想っただけで、勿論、繋がるという仕組みなんです、うーん。
ただこれね、そういった所に行って、参拝するのも勿論いいですよ。
だけど、本当はそういう風に、瞬時に繋がっているという事。
何故なら、いつでもいらっしゃるからだ、
タケル「はい」
うーん、という事でね。
面白いねえ、日本語は、うーん。
では、主晴。

2016年12月13日 夜12時24分~12時26分 主晴様