日の神・主晴

『人に、恩を返すのか、怨で返すのか』

【日神理神示(ひかりしんじ)】 - 平成三一年一月二日
『人に、恩を返すのか、怨で返すのか』

心と心の隔たりという事は、つまりこれ、自分と相手、お互い様でという思いであれば、く、く、(互という字は、くと、逆さまの、くが入る)つまりはこの組み合わせ、御縁というもの、神から実に初めより、御霊生まれしより「結び霊の理」にて繋がっている。
その組み合わせ、縁組だ。
よくある話で、これ思いの他、
「あら、あなたAさん知ってたの?それは驚きだ」
という事、これよくある話であるが、実に縁組は丸いお盆で、人と人が出会(お)うているというわけだ。
その縁組のお盆は、一人も漏らすことなく、毎度毎度同じ面々が出会わせているわけである。
だからこそ御縁は、実に大事となるわけである。
前世のいずれかの時代において、これ敵か、又は、味方にという風な思いが、実に今、肝心なる想念転換と呼ぶわけだ。
自分の思いというのは、自分自身ならば、いくらようでも変える事ができるわけである。
いい人と、そうでない人という、自分の都合からなるこれ、見方というものは、自分にとって都合のいいか悪いかという風に判断する者。
都合良し悪しに関わらず、親しい間柄というもの、いくらでもあるわけだ。
人の御縁、どこまでもこれ、自分の欲得の為に利用しようという風なる計算高い者は、常にそういう見方をしてはこれ、損得勘定、心をまるで算盤のようにはじいているというわけだ。
役立たずはいらぬという風なる判断。
自分にとって役に立つ者が必要で、そうでない者は必要無しという風なる心の計算、常にそれは、我欲一辺倒となっているわけであるから、本来の心からのこれ、親友というもの、持てるのかなとなるわけだ。
常に、人を利用しようとする者。
人を自分の利益の為のみ、その為に用を成すという風なる、この利用。
それは、あくまでも自己愛という風にこれ、利他愛のものは損得勘定抜きで、心からこれ、相手の為に何かお役立だせて頂きたい。
自分の出来得る事であるならば、お助けさせて頂きたいという風なる者。
この大違いだ。
人というのは、これからハッキリするがこれ、どちらかという風なる、心の衝立、んー、その衝立が実に、天と地の境い目という風なる事になるわけだ。
利他愛の者は、上へ上へと昇華する。
自己愛の者は、下へ下へと落ちていくわけだ。
ならば、この衝立はまさしく、こちらの境界線という風になるわけである、うーん。
上か下か、天か地かとういう定め、うーん。
まるでこれ、重大なる境い目となるわけである。
この境界線は、ハッキリ申せばこれ、善悪だ。
善人か悪人かという事だ。
今迄は、善人だなあという風に思うていた者も、それは平和なる時代であるから、そのようでいて、実はこれ、こと何か起こらば、本心、奥底の本音というものが、ドンドン、ドンドンと湧き出るように表面化してくるわけだ。
いざとなったら、やはり自分が、自分の家族が、自分の親友がという風に、身近なる者から、やはりこれ、大事に思うのは、これ当たり前の事であるから、赤の他人、遠い縁であればある程、やはりこういう、例えば、仕事上において、社長もいれば、社員もいてという、この上下関係。
そういう社会の中において、やはりこれ、その会社にいる自分が社員だとしたならば、やはり社長の言う事を聞かねばということになるし、お給料を頂いているわけであるから、一生懸命頑張って、社員としての役目をという風になるわけだ。
例を申せば、その中において、やはりこれ、自分自身が仕事上、何かこと起こりては、辞めなければならないという風なる事になったとすると、今迄は会社の為にと頑張っていたわけであるが、もう会社を辞めるとなったならば、それはそれ、別な所へと、又仕事を始める。
すると、その会社の人たちの中で、親友と呼べる者がいなかったとしたならば、それで御縁があまり繋がらないとなったとする。
つまりは、今の状態、自分にとって家族、又はそういう会社の人たち、又は友人知人など、常に常にこれ、自分から近き者、大事にしたいと思う者、そういう風なる思いというもの、誰しもが持つわけだ。
それは、常に変動するわけだ。
自分の事の様に、否、自分以上の様に大事にしたいと思う者。
そういう者たちを、やはりこれ、自分から身近なる者。
まあ家族でありても、もしそれ、仲が良いか否かという風になったのであれば、一概に自分にとっての大事にという風なる事は、言えないわけである。
そういう立場的な身近なる者と、自分の心から身近に思える者とは、同じだったり、違ったりしてくるわけである。
それが、御魂の、御魂同士の、心からの大切なる人か、どうかだ。
一緒に暮らしておる者よりも、遠くにいる者の方が大事という事もある。
それが、やはり過去世からの御縁の近さである、ハハハ。
まあ、人それぞれであるがこれ、いずれにせよ、大切な人ほど、やはり救わせて頂こうという思い。
これは、本当に今、そしてこれからが、大切な大切な救いの期間となるわけだ。
もしこれ、期限というものがありて、間に合うか、否かというのは、今年一年、とても貴重なる一年でありて、これ、想念イコールの霊層界と申したが、まさしく、少しでも心の衝立、人との心の壁を、なるべくならこれ、無くしていくという風なる事。
心の蓋したままの状態で、相手に会ったとしてもこれ、相手も心閉ざしたままという風に、本音という風なる思いを伝える事は、難しいとなるわけだ。
心から気を許しては、お互いの本音というもの、悩みがあったならば聞いてほしい、又は聞かせてほしいという風なる、親しき者、心の支えの友人というのは、本当に大切なる者たちだ。
人は、一人では生きてはいけぬ。
孤独ほど、寂しいものはなし。
たまには、お茶を飲んだり、お酒を飲んだり、カラオケに行ったりという風なる、心の交流というものが大切となってくる。
普段の心と心の結び目を、しかりとこれ、お互い様で助け合って、それが心の救いの箱舟となるわけだ。
以前、何かしらこれ、予想だにしない事が、いつなんどき起こるや分からんという風ななる、それが、ラルロの時代である。
心構えというもの、準備というものが、日頃から大事でありて、これ、慌てふためいては、右往左往しているようでは間に合うかという事であるから、心の準備、物の準備という風に、常に申しておるわけである。
心の余裕というもの、如何に大事か。
スバルが申すのは、余裕のヨッちゃん、ゆとりのユッちゃんだ、ハハハ。
そうでなければ、相手の事も考える間もなく、それでは神が求めるの「救い」という事。
(救いという字に、求という字が入っている)
これ、その様なる心の箱舟になれるかどうかとなるわけだ。
心の灯台になれとなる。
「灯台下暗らし」という言葉があるが、明るいからこそ船を導けるという事になりて、これ、暗ければ、どこへ行けばいいのやらと路頭に迷うわけである。
それは、心の灯台とは、明るいか、前の向きか、善の想念か、ス直か、下座できるのかという風なる事。
その逆は、役立たずという風に、灯台下暗らしだ、うーん。
「灯台下暗らし」というのは、暗いという字を書く、よいか?
明るく、素直なる、下座の者は、心の灯台明るしだ。
「あの人にだったら、話を聞いてもらえるかな」
「どうしたらいいのか、導いてくれるかな」
「いい答えが与えられるかな」
という風なる。
それが、心の箱舟だ。
まずもって、信用という事が大事。
信頼という事が大事。
信用できるから、信頼となる。
信頼は、神来(しんらい)だ、ハハハ。
分かるかなは?
タケル「はい」
おおー、どういう字だ?
タケル「神様が来られる」
そうだー。
人の言う事のこの信じるという字、一度でもこれ、疑いをかけられたとなる。
それでも真を、常に常にこれ、伝えゆく。
一度二度と疑われては、なかなかこれ、信頼関係というもの、難しいとなってくるわけだ。
然し、それは自分自身の徹底した、これ、下座という風なる、素晴らしき行があるならば、これ、復帰復活となり得(う)るわけだ。
頑固な者ほど融通利かず、自分真中心なる考えだ。
それが、正しいか真かなるいう風なる事。
人間というのは、自分真中心からなる、良し悪(あ)しでの立て替え、立て分けとなっているから、これ、少しでもス直なる者は、相手の話を聞き入れるという風な下座ができるわけだ。
ス直か頑固かで、大きく差が出る。
確かにこれ、自分の考えというものを、自分で判断しては、正しい否かという風なる事。
それが核心となっておるであろうがこれ、神から見た正しいか否かとは、イコールではないわけである。
例えば、人は不幸という風に思える病貧争災を、神は常にこれ、魂の大掃除として与えているわけであるから、神からすれば、よしよしよしだ。
人からすれば、悪(あ)しとなるわけだ。
否、悟りのあるものは、ああ、必然であるから、与えられるべくしてのカルマであるから、申し訳ないのは自分がして来た事だという風なる。
それが、正しき見解だ。
何が起こりてもこれ、何度も何度も申すが、起こるという文字からして、己が走る。
脇目もせずに、今迄、気付かずに走って来た人生だ。
確かにこれ、どれだけのカルマを背負って、又この世に生まれてきたかという事、分からずにいたわけであるから、何か事起こりては、世のせい、人のせいにするのも、分からないわけではない。
だが、これ、聖雄聖者に、特に釈迦にだ。
たったの、短かーい、分かりやすーい言葉で、はい。
タケル「因果応報」
そう、こんなに明解なる短き言葉という風なる言霊。
この因果応報で、見返るという事を徹底して、これ、自分のしてきた事を、お詫びする。
神に、そして御霊たちに、理由は分からずともだ。
まあ、こちらに来られる方々は、分かる事が多くあるわけであるが、この者との御縁があるか、無いかというなる、やはり、お盆の中での出会いであるから、それこそが、いつの時代に、どの様なる事をというカルマ、知らされる者は限られているわけだ。
今の時代に、いろんな時代の者たちが、 相連動しているわけだ、うーん。
己自身も、一人ではない。
己以外の方たちも、一人ではなしだ。
そういう仕組みというもの、時代によっては分かりやすいのは、例えば平安時代だ。
後(のち)の戦国時代の方が、どちらかと言うと遅れているという風なる事。
それは、直々にチャンバラで戦わずとも、平安時代は遠隔で戦えたわけだ。
それが陰陽師の居た時代だ。
まあ戦国にも、その様な者、おるにはおるが、これ念力というものは、今の心と書いての念。
念ずるという事は、目に見えない力、魔力によって、いくらようでも思いを果たすという事だ。
相手の心を動かすのも、自由自在となる。
まあそれは、神がよしとした場合であるが、これ、念ずるという念は、良き事と、そうでない事、両方勿論あるわけだ。
救わせて頂きたいと、念じる。
それは、神に祈りというもの、今の心が届くわけだ。
(念という字は、今と心が入っている)
天に通ずる念と、地に通ずる念がある。
地獄界に通ずるのが、どういう念?はい。
タケル「悪想念」
悪想念だ。
悪想念を抱けは、これ、悪霊と波長が合い、怨念という風になるわけである。
恩、怨、「おん」という字は、同じ音霊でも、天と地の差の言霊となる。
恨み妬み嫉みという悪想念を抱いたならば、この怨念。
然れども、因果応報にて、「見返りの理」によって、己自身が深く深くこれ、神と御霊にお詫びしたならば、こちらの恩という風になるわけだ。
こういう字に変わると、恩を念ずる。
怨を恩で、お返しさせて頂く。
恩をONでお返しだ。
2019年は、恩を仇で返すのではない。
こちらの怨でも、善の心で想念を転換しては、これ、今迄「嫌だなー」と思った事、「嫌な人だなー」って思っていた者。
確かに、一見、理不尽な事は多くあるが、これ、理不尽というのは、この世には一切、本来は無いわけだ。
理由があるから、起きているわけだ。
理屈、理論の世界ではない、うーん。
必ず、理「ことわり」の由(よし)、理由がある。
神の理(ことわり)のが、由(よし)として起こるわけだ、うーん。
それが、因果応報だ。
タケル「はい」
因果応報と受けとめては、これ、お詫びをさせて頂くという想念は、ドンドンドンドンとカルマの清算が許されていくわけだ。
お詫びせずして、理不尽だという風に、反省なしの者、不平不満を申す者、悪行を働く者、悪口陰口を申しては、仕返しという風なる事。
カルマの清算、もっともっとこれ、許されずに増える一方となるわけだ、うーん。
例えばこれ、山登りするという風なる霊層界、昇華する為に、まずもって山登りは、リュックを背負う。
それが、カルマの載せたリュックとしよう。
重ければ重いほど、登るのが難しいとなってくる。
せっかく与えられてるこれ、病貧争災のカルマの清算も、理不尽、理不尽、理不尽という風に、ドンドンと罪摘んでは、ドンドンと登るどころか、谷底へ落ちていくという風なる事。
自らの背負いたる、カルマを入れたリュック。
身軽か、否かで、峠越えの山、登れるか否かとなるわけだ。
大峠というのは、個々で皆、違ってくるわけだ。
例えば、大きな地震が起こりても、救われる者と、そうでない者。
それは、あの世に帰りたかといって、救われてないとは言えぬという事だ。
あの世の天国、この世の地獄という風なる事。
あの世に帰りても、天国、又は地獄だし、この世にいても、天国と地獄という風に分かれているわけだ、ハハハ。
さあさあ、峠越え。
上に行くのか、下に逝くのかという風なる、この御魂だ。
見たまえ(みたまえ・御魂へ)となる、ハハハハハ。
今の自分は、どっちかな?ハハハハハ。
今日は、何日?
タケル「二日です」
あれー?
又、峠越えしてしまったなーとなる。
(日付が、二日から三日に変わる)
神様、最近長いなーという風なる事だ。
全ては、必要ありての事。
この必要だ。
私は、日の神。

2019年1月2日 夜11時11分~1月3日 夜12時08分

《引き続き、主晴様からのメッセージ》

大峠です。
この大いなるというね、大きいという字は、本当に、この境界線ね。
これが霊界、ね、境界線なんだわ。
人はね、この境、これ肝心要(かなめ)というね、時期は、常に常に「今」なんですよ。
今今今、肝心なの、ね。
上に登っている人、又は行こうとしている人。
少しでも想念を高めてゆこう。
神様のお役に立させて頂こう。
世の中の為に良き事をしていこうという人ね。
そういう人は、この峠の上下という字のね、こちらの方(上)に行くんですよねー。
今どこに、ね、どっちかなという事はが分かりやすいのが、善か悪かという事であるけども、悪人て、自分が悪人だと思っていると思う?はい。
タケル「善人だと思ってる」
善人だとは思っていないんだけれど、うん。
タケル「悪人とは思っていない」
うん、これね、本夛君。
このよしじゃなくて、善悪の善しじゃなくて、真勝手なるこちらのね、善(ぜん)という字じゃない、良しなんですよ。
そして、ここでね、この秀吉の吉(よし)ね。
おみくじで、大吉から吉が出ると喜ぶでしょう、人って、ねえー。
こちらの吉(よし)になっていこうという人がね。
天へ、ドンドンドンドンと昇って行くんですよ。
自分の都合で、ね、この都合はね、自己愛の都合だよ、ね。
自己愛の都合で、良しとする人、ね。
吉か凶か、今迄はね、ツイていたとします、ね。
博打で大儲けしたとかね。
詐欺をさんざんやって、騙してはね、金持ちになったとかね。
でもそれって、本当はこっちじゃなくて、こっちなんですよ、ハハハハハ。
×(ばつ・罰)なんだ。
(初め×と書かれて、凶と書かれる)
これ罰でしょ、ね。
凶が罰なんだよ。
タケル「うーん(感心する)」
ね、面白いでしょう?
今が罰なんだわ。
いくら、おみくじで大吉でも、人を騙して金持ちなんて。
神様は、これからは、善悪ハッキリと立て分けられるから、本当に、バレバレバレバレ、バーレバレ。
ね、天々(てんでん)バラバラ、天(てん)バララだ、ね。
実にいい時代になったんだよね。
タケル「はい」
ねー。
神様の教えという、まあ、理解できるか否かというよりも、心で感じ取るものだから、ありがたいなと思う人と、ま、色々いらっしゃると思いますけど、後ろに憑いておられる方々は、分かるんですよ。
ですから、救われてほしいと思う方が、憑いているか。
又は、邪魔しようという風なる方が憑いていれば、影響を受けてしまうんですね。
そういう風になっているんです。
タケル「うーん」
いわゆる波長、波長です。
私は、今年から、今迄はスバルというペンネームで、公開させて頂いたけど、過去世、釈迦だという風にお伝えしていきます。
タケル「はい」
私は、これね、いなくなるという、17と、いいなーという17の数霊。
数というのはね、陽と陰の捉え方、両方、持ち合わせているんだよ。
例えは 4という数霊も二重通りでしょう。
タケル「はい」
という事なの。
あ 、18分だ。
神開く(十八)になっちゃったよね。
私は、ハハハ、釈迦。

~12時08分




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