日の神・主晴

自分の人生、オンリーワンの宝を磨くこと

『日神理神示(ひかりしんじ)』 平成三一年二月十日

十五夜というのは、どういう月?はい。
タケル「満月」
煌々と照らせども、太陽にはかなわぬ明るさであるが、これ、み役いうものがありて、全てが与えられている役目となるわけだ。
自分の役目とは、何だろうか?
自分にとって成すべきことは、何であろうか?
これ、今知る者と、そうでない者といるわけである。
役目というのは、この役に「又」と書いて、又、同じ役目となって、繰り返しているわけだ。
向き、不向きというものがある。
全員が社長では、これ、落ち着いてもいられないという風に、誰が茶を出すんだとなる、ハハハ。
タケル「(笑う)」
ドッシリと構えた社長は、社員が揃いて、まず会議。
これからどうやって、会社を少しでも、昨日よりも今日、今日よりも明日へと、昇り昇りての、そういう風に、まずもって、そこの主が、どのようにしていくかで変わってくるわけである。
色んな世の中、仕事がある。
実に、昔ながらのある仕事や、今だからこそ、大いに流行る仕事。
又、これから大きく展開していくだろう仕事等々あるわけだ。
家の中にも、それぞれ役目がある。
昔々は、大家族。
おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、子供たち。
今は、各家族の時代といわれ、その時代その時代で、家族、家庭の在り方というのは変わってきたわけだ。
全ての役割というものは、昔はあったはずだ。
子供達は、学校から帰ってきても、家の手伝い、一緒にさせられた時もあったわけであり、今ならどうかと言うと、子供達は大忙しで、それどころではない。
その時代その時代で、大きく変わってきているわけである。
これから、ますます変わるとなるであろう。
家族一緒に食事、それが一番おいしいであろうが、これ、昔は座る順番も決められており、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、という風に、奥の座という所から決められていた席。
今は、そんなの、どうでもよしてあり、否、家族がいたところで、てんでんバラバラの時間帯の食事。
そういうところもあるわけだ、うん。
ましてや、一人暮らしの者は、一人で作るのも、もったいなしである。
となると、外食や弁当に頼ってしまうという事だ。
何を申したいかというと、今の時代ということ。
そして、これから流れがまた変わってくるということ。
実は、一家団欒の食事、食卓。
まあ、昔は、まあるいテーブルを囲んだり、まあ四角であっても、心は丸くという風に、これ、そのようなる時代。
ただ食べるだけの事というのを考えると、一人で食べた方が、それはスムーズに、こと運びてはこれ、誰かそばにいて話しながらの、まあ少しは時間も多くかかるであろうが、そういう食卓というものは、
「学校でこういうことあったよ」
「会社でこういうことあったんだ」
と、皆で話したりして、
「今日は、こういうテレビをやるね」
「明日は、雪だってよ」
とかいう風なる会話。
よは、暖かな食卓を囲むという、昔ながらのそういったことを見直してはいかがかなとなるわけだ。
毎日は難しかったとしても、たまの休みには、そういう時間を持つようにするということだ。
いわゆる、家の中で、てんでんバラバラ、外行ったって、てんでんバラバラだ。
家族愛というもの、なかなかもってこれ、日本の、日本人の生き方によって、そういった平凡な所から、意味深しなわけである、うん。
季節折々にすることも、春夏秋冬と、日本という国は、彩り深き国であり、そうしては、その旬、その旬の頂き物を、ありがたく感謝して頂きますとなるわけだ、うん。
まあ、春は、山菜としよう。
夏は、まあ水遊びも兼ねて、魚釣りという。
秋は、落ち葉焚きしながら、焼き芋という。
そのようなることを、楽しんでいた時代。
実にこれ、神は又、申すが、十五というのは、丸く丸くという風に、心丸き者というのは、いつでも柔軟性があって、少しでも余裕がありて、
「これ、山菜を多く取ってきたから、おすそ分けだよ」
「魚、沢山釣れたから食べとくれ」
「焼き芋焼いたよ、どうぞ」
という風なる、これこそが、ゆとりのある生き方であるわけだ
そろそろ山菜の採れる時期近く、新たなる発見あるといいなという風に、そのようにして、ゆとりのある人生。
ゆとりというのは、飽く迄も、心のゆとりである。
せかせかせかせか、満員電車で、ぎゅうぎゅう詰めの生活。
それでは、本当にやりきれない人生になってしまうから、まあ仕事行くのに、そういう時間帯、仕方ないにしろ、休みの時ぐらいは、ゆとりを持って、そうではない一日を過ごすだけでも、心を養うとなるわけである。
自分にとって、何が好きかだ。
何をやりたいかだ。
何になってみたいかだ。
思い巡らすだけでも、楽しくなるというようなる事だ。
心のゆとりが、人生のゆとりだ。
お金を、たんまりと貯金して、
「ああ、俺は、もう働かなくても、大丈夫だ」
が、果たして、これがゆとりともあろうかとなる。
もし大引っ繰り返しで、お金の価値観、ゼロになってしまったら、ゆとりどころではなくなるわけだ。
そういう生き方、考え方をしている者は、今に、これ大ケガ、大やけどをするであろうとなる。
そうではなくて、いつでも そういったこと、なんとかなるよというようなる、ゆとりある生き方というものが、大事なわけだ。
わざわざ会社に行って、満員電車で、へえこらへえこら行かなくても、思った時に、好きな仕事をし、そうしてゆとりのある人生。
こちらの方がよっぽど、すばらしいという風に言えるのではないだろうか。
よは、今までの考え方であると、引っ繰り返されるのが、物質的に物事を、今だもって考えている者たちだ。
いい学校出て、いい会社、高いお給料もらって、貯金して、ゆとりのある人生。
まるで、絵に描いたような人生。
今までは通用したとしても、これからは分からない。
何故なら、霊的に物事を考えていく時代に、切り替わったからだ、うん。
もっともっともっと、自分のやりたいことは何であろうかと、掘り下げる。
そうして、掘って掘って掘って、
「あっ、これが俺にとっての、宝の原石だったんだ」
じゃあ、それを磨いていく。
磨いて磨いて磨いて、それで華やかなる人生となったら、最高ではないか。
然も、それは、オンリーワンの宝だ。
どこにもない、世界にただ一つのオンリーワンだとしたら、もっとすごい。
「あの人の所に行かないと、その作品見れないよ」
ぐらいに、世界でたった一つの素晴らしい作品。
人は、わざわざ呼ばなくても、神が呼んでくれる。
そして、必要な方たちだけヲ連れてきてくれる。
そうしては、山を散策して、
「これは食べれるんだよ」
「こういう食べ方があるんだ」
「保存は、こういうやり方」
そうして、お伝えさせていただく。
その者は、
「ああ、山に来て良かった」
となれば、最高だわけだ。
目的は、ある作品かもしれない。
山だって、どこにもありそうな山だ。
まあ、その山、その山で、山菜の種類も色々変わるが、これ、少し離れると、また違う山菜。
そのようにして、山の神が準備してくれてるわけだ。
ありがたきかな、無料となっている、ハハハ。
あーそういう日よ、今年実行だ。
よは、役に立たせていただこうということだ。
これから何度も押すが、一番大事なのは、食のあり方だ。
食のあり方と申すわけだ。
どんな食べ物も、よしではないわけだ。
今日は、何日?
タケル「10日です」
まあ、サンサンと輝いた人生にしていこうではないかとなる。
私は、日の神。

日の神様    2019年2月10日 夜11時11分~11時31分

山菜巡りツアー、楽しみです。
タケル「はい」
主晴(スバル )。

主晴様   ~11時33分