日の神・主晴

内なる心を輝かせ、自分磨きするべし

『日神理神示(ひかりしんじ)』 平成三一年二月二十二日


風向きというのがある。
一定方向で、風が吹いているわけではないということだ。
まあ、風が止んでいる時もあれば,、風が吹く時もある。
その風向きというもの、常に常にあらゆる面でくるわけである。
人生というのは、一定方向だけに向いているという風なることではないわけであり、まあ目的地、は一つにしろ、そこに色んなこれ、人との関わり、物ごとの関わりというのがあるから、目的地、時間通りに行ける場合もあり、遅れて行く場合もあり、アクシデントを起こされて、行けなくなった場合もあるわけだ
然れども、人は必ず、前へ向かうしかないわけだ、うーん。
後ろ歩きということないわけである。
つまり、過去には勿論戻れないから、前に進むわけである。
見えてくる景色というのは、それぞれ与えられるもの。
例えば、同じ電車に乗っている。
ある者は、目の前のスマホに夢中。
ある者は、窓の外に流れる景色に見とれている。
ある者は寝ているという風に、同じ乗り物に乗って、同じようなる方向へ向かっていても、それぞれ皆違っているわけだ。
人目を気にする者、全くもって気にしない普。
着飾るだけ、着飾っている者、段通りの格好、色々である。
どうしてもこれ、中身というものは、外に出やすいわけだ。
まあ、一応外出するのであるから、普段よりは着飾って、女性であれば、化粧をして、髪を整えてという風にするわけであるが、心の中はどうかな?
どうしてもこれ、人のことばかり気になるもの。
人のことで一喜一憂、物事起こりて一喜一憂、お疲れさんとなる。
もう少し、内へ内へという風に、実は内なるものというのは、自分磨きをすれば、人は自然とこれ、輝いてくるわけであるから、見かけだけ、上辺だけ、ピカピカに磨いても、パタパタと、おしろい塗っても、心が輝いてこなければ、何も変わらないとなるわけだ。
見かけ倒しだ。
この「内」という字の中に、人という字が入っている。
まあ、お化粧、人に頼める場合もある。
お金を出してプロの方に、まあ、お嫁さんに嫁ぐ日ぐらいは、そのようにしようとか、いう風なることだが、心のお化粧は、自分しかできないわけだ。
少しでも綺麗にしていこう。
昇華していこう。
神の教えはいつも、この内なる心のお話、殆どなわけだ。
外見ばかり気にしているから、他人の目ばかり気がしているから、成長が止まってしまうとなるわけだ。
(外という字、他人のタと書いて、止まるのトと書く)
他人の目というのは、まあ気になるのは分かるが、いくら様でもこれ、内なるものが輝いてくれば、他人はそれを、
「ああ、この人、何か輝いているもの持っているな」
「なんか前と変わったなあ」
「明るくなったなあ」
「大らかになったなあ」
という風に、分かってくるものだ。
内なる心は、勿論、他人ではできない。
自分自身が、常にこれ、何か一つでも、例えば毎日毎日神から教え降りる、長ったらしい文章、ハハハ。
まあ最後まで、見届ける者、どれだけおるかであるは、これ、ハハハ。
その中に一つでも、
「あっ、これを今日、これから頑張ろう」
と自分なりに、内なる心を輝かせるにあたってのテーマとしていくわけだ、うん。
あれもこれもどれも、一度でできるというものでもないし、少しずつ、一つずつでも頑張っていこうと努力していくことが大事だ。
まあ、まずもって、自分の内なるものが、どういった性格やら、癖やらということ。
そこから、気付きから始まるわけだ。
よく神は、人と比べるでなしと言う。
比べたところで、全く赤の他人。
家族とて、自分ではない。
神と自分、自分と神。
「ああ神様、何がいけなかったのでしょうか?
ある方を怒らせてしまったけど、理由が分かりません」
となった場合、まあ理由が、その時に分からなくとも、相手は怒っているのであるから、まずはい?
タケル「誤ること」
そうだ。
「ごめんなさい」
「そしてできれば、教えてください」
という風になる。
人というのは、どうしても忘れやすい者もおるわけであるから、これ、忘れるという字も、亡くなると書いて、心と書く。
これは、この無くなるでないわけだ。
どっかに逃亡しちゃっているわけだ、ハハハ。
まあ、どっか行っちゃったんだな。
脳にはインプットされているんだけど、忘却というものがあるから、どうしても、そういう風になってしまうわけだ。
相手は覚えていて、自分は忘れる。
また、その逆もある。
悪いぎがあって、忘れた場合ではない。
忘れるというのは、本当に忘れてしまうわけだ、うーん。
たが、勿論、何か意味あって、そのようなること起こるわけだが、これ覚えている。
なんでもかんでも、一から十までという風に覚えているという、所謂忘れないということ。
こういう者もおる。
あの時に、こう言われた、ああ言われた、どうされた、こうされた。
ずーっと根に持っていたとしよう。
もう片方は、すっかり忘れているわけだ。
そしてそれが、片方覚えている者は、尾を引いていたとしよう。
忘れている者は、プツンと切れているから、ケロリとしているわけだ
さあ、道端で会った。
久しぶり。
ケロリとしているからこそ、忘れている者は、ニコニコしている。
覚えている者は、プンプンしているとしよう。
「あら、あの人、今日機嫌が悪いわね」
という風に、忘れている者は思うわけだ。
覚えている者は、根に、心の根に根付いて、二度と忘れるものかと、根に持っているわけだ。
ああ、それなのに、それなのに、何やら反省もなく、ニコニコしてやってきた。
「何様のつもり?」
となったとしよう。
忘れた方は、身に覚えもないわけだ。
これが実は、覚えている者は、御霊で、憑依霊だとしよう。
いつの時代に、どういうことをされ、苦しい思いで、気付いたら憑依霊。
まあ、生きている人間で、今例えて言っていたわけであるが、憑依霊は全部、今の話の例の通りだ。
まあ、根に持っているというという執着を持つ者ばかりでは、勿論ない。
恋しい、お傍にいたいという風なる憑依霊も、おるわけであるが、この仕組みは、実に殆どの憑依霊が、勿論覚えているわけだ。
殆どと申したのは、中には亡くなったことさえも気付かず、まっ暗闇で、どこにいるのかさえも、分からないという風なる御霊も、中にはおるからだ。
そのようにして、仕組みとなっているわけであるが、先ほどの続きで、現界にいる者同士、Aは覚えている、 Bは忘れている。
まあ、Aから説明を受けたら、Bは思い出すかもしれない。
又は、忘れちゃったんだけれども、そうだったんだなという風に謝ることもあるであろう。
中には、身に覚えもないから、逆にBは怒りだす者もおるかもしれない。
それは、どういうことかと言うと、 気付かない場合だ。
Aは、たった一言が、たった一つの態度が、ものすごく傷ついた。
ところがBは、全くそのつもりで話したわけではない、行動を起こしたわけではないとした場合だ。
つまりBは、悪い気があってしたわけではない場合だ。
だから、何とも言えないわけである。
まあ、どちらも覚えているのであれば、色々解決の仕方もあるであろう。
たがここで、神申すには、人には流れというものがあり、AとB、まあ、そのことで離れていったとしたら、それはそれ。
又、仲良くなったら、それはそれ。
何でもこれは、流れがある。
必要あらば、人は、また出会うわけだ。
必要ないとしたならば、別に嫌いではなく、仲が良かったとしても、もう出会わせることもないわけだ。
それは、距離的なものではない。
勿論、心の距離でもない。
運命(さだめ)というのは、常に常に運ばれている。
運ぶ命の定めだから、愛し合っている者同士、ある時、まさかもう会えなくなるなんて、ということもあるであろう。
もう二度と会いたくもないのに、ハハハ毎日のように、顔を合わさなければならない運命(さだめ)もあるであろう、ハハハ。
神が定める。
神が運命を決める。
必要あるから、傍にいさせる。
常に常に、流れというもの起こる。
それで良しだ、うん。
だから面白いというのもある。
だから辛いということもあるだろう。
「まさか、あれが最後だったの?
あの人いい人だったのに、もう先に逝ってしまった」
又は、逆に自分が逝ってしまった、ハハハ。
定めだ、うん。
定めの中で、人は生かされている。
自分の運命の行き先、矛先、定めるのは神であるから、分からない。
そこが良し、それで良し。
今日は何の数霊?
タケル「二十一です」
二十で、十七.。
相反するもの、お互いにいいな。
相反するものというのは、どちらも良しなわけだ。
相合わさりて、うまくいくわけだ。
夫婦だって、同じようなる性格だから、うまくいくではない。
相性というのは、そういうのではない。
同じようなる性格というのは、そうそうないわけであるが、自分にないものを持っている。
相手というのは、またそこが、良しなわけだ、うん。
又は、悪しと受けとめるという者もおるわけだ。
自分と比べるな、人のことをだ。
他人と比べるな、自分のことをだ。
それぞれが、いいなの、二十七.
今日は、何日?
タケル「22日です」
(40分を見られて)
神様は、もっと早くしれー(40)
早くしてくれー。
毎日長文、お疲れさん。
私は、日の神。

日の神様    2019年2月22日 夜11時11分~11時40分


22というのは、夫婦と呼ぶけれども、夫婦というのは、相合わさりての、これ、ホットなる、ね、御縁が望ましいんだわ。
一緒にいるだけで、幸せだなーですね。
頑張って行きましょう。
私は、主晴(スバル )。

主晴様   ~11時41分